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子どもがワクワクする力の湧く場をつくるために、何が必要なのか?(宮台真司氏の社会学講義での学び)〜ホースセラピー実践を捉え直し、非日常と日常をつなぐ〜

コラム

2023年10〜11月に宮台真司氏の社会学講義を受講しました。講義後にそこからの学びが普段の活動にどのように役立つのかというテーマでレポートを作成しました。

そもそも僕らは社会の中でどのように生きていて、馬と関わる中での学び・成長の本質とこれからの社会を生きていく上で、ホースセラピーの取り組みが果たせる役割ついてまとめました。

講義を受講していないと、分かりにくい部分もあるかも知れませんが、以下にその内容を掲載します。自分の思考のつたなさ丸出しで少し恥ずかしい部分もありますが…。(きびはら)


宮台真司 社会学講義 *1「社会意識と社会構造、社会学原論レポート」

子どもがワクワクする力の湧く場をつくるために、何が必要なのか? 〜ホースセラピー実践を捉え直し、非日常と日常をつなぐ〜

 今回の社会学講義での学びを私の普段の現場にどのように活かすことが出来るのか、考察していきます。

私の現場について〜ホースセラピー実践について

 私の現場である三陸駒舎は、岩手県釜石市の沿岸部から約20km内陸に入った40世帯ほどの山村集落にあります。築100年を越える古民家を拠点に、馬3頭と暮らしながら、地域の子どもたちを対象としたホースセラピー実践をしています。ホースセラピーとは、乗馬を始め、馬の世話やエサやり、馬の部屋の掃除など、馬と関わり馬の力に頼りながら、心と身体を元気にする活動です。周辺の川や山、里山で遊んだりもします。2017年には、障がいのある子ども向けの事業も開始しました。現在、市内や沿岸市町村から、遠くは片道1時間半かけて毎月延200名の子どもが来ています。

パターンから抜け出し、子どもたちがワクワクしている状態を目指す

 僕らは、自由に選択をして生きているのだろうか?そもそも、自由な選択できていたとして、幸せな人生を送れているのだろうか?
 社会を覆う社会意識の変遷が日本のサブカルチャー(音楽、マンガ、テレビ番組など)の変遷にリンクしている*2ことを知ったときに、好きだと思って自由に選んで享受していたモノは、実は自分で選んでいるようで、その時代時代の空気に選ばされていたことに気がつきました。選択肢が用意されていて、自由に選べる環境にあっても、社会がつくり出したパターンに、はまって生きているだけに過ぎません。
 パターンの中で生きている限りツマラナイ毎日を過ごすことになります。子どもたちがワクワクする幸せな日々が送れるように、自分の現場で子どもたちに対して何ができるのか、社会学講義での学びを元に考えていきます。

 最初に、「子どもたちのどのような状態を目指すのか」を確認します。知ることよりも動機づけられることが大事であるという哲学思想のプラグマティズム*3を下地に置き、「子どもたちの内側から力が湧いてワクワクしている状態」を目指します。(その反対は、力が湧かずツマラナイと感じている状態です。)そのために必要なことは、言葉の世界の外に出るために、身体的な能力と感情的な能力を養い、ある人・モノに出会ったときに、[それが力を失う人・モノなのか/それとも力が湧いてくる人・モノなのか]、を識別できる力を身に付けることです。
 身体的な能力とは、アフォーダンスが生じる力です。アフォーダンスとは、ある環境に接したときに、「頭で考えて、判断する」前に「身体が反応して動く」というものです。感情的な働きは、ミメーシスといって、感染的模倣と言われ、気がついたら同じようなことをしているというものです。

 以上を念頭におき、自分の現場で、子どもたちの内側から力が湧いてワクワクしている状態がどのようにしたら生み出せるか、いくつかの視点で見ていきます。

馬からの眼差しによって、入れ替え可能な存在から脱却する

 現在は、原生自然からの間接化—自然から切り離された都市化がどんどん進んでいます。様々な技術が発展する中で人間は負担が免除され、安全・便利・快適な暮らしが送れるようになりました。その一方で、気候変動に代表されるように文明そのものが脅かされるような問題が起こりつつあります。また、安全・便利・快適なシステムが暮らしのあらゆる面に広がることで、例えばマニュアル化が進んで誰でもその仕事ができるようになることで、個人としてもシステムの歯車のように置き換え可能な存在として扱われるようになり、私たちは、人間性を保つことが難しい状況におかれています。
 現場で、子どもたちと関わっていると、不登校や注目を得るための試し行動などが見られます。この要因の一つとして、置き換え可能な部品として見られることへの無意識の抗いではないかと感じます。

 馬と関わることで、入れ替え不可能な自分を取り戻すことができます。馬は、僕ら人間を障がいが[ある/ない]等とカテゴリーで分けることなく、先入観なく平等に見るという特徴があります。馬は人間のような個体識別をしておらず、構造認識すると言われています。構造認識とは、馬と人の間で起こっている関わり方(動き方、速さ、動かす順序など)で、それを毎回確認しています。しかも、大雑把なモノではなくて、人間が自分でも気付いていない、無意識で感情などによって起こっている体の変化にも馬は反応します。
 その馬を、〈馬〉として見てしまえば、上手くコミュニケーションが取れません。馬も人を〈人〉として見ておらず、一人ひとりの状態を感じ取って反応を返してくれます。馬と上手くコミュニケーションが[取れたり/取れなかったり]というやり取りを重ねていくと、ちゃんと私個人と向き合ってくれているという感覚—入れ替え不可能な自分で、かけがえのない存在なんだ、ということを気付かせてくれます。*4

 もう少し体験の具体的な部分について踏み込みます。上記のことは、馬との関わりの全般で起こり得ますが、乗馬となると乗馬の技術に多くの意識が取られ、自身の内的な変化に気付くことが難しくなります。乗馬ではなく、馬にリードを付けて一緒に歩く「引き馬」の活動でも十分に上記の気付きをもたらすことが可能です。技術的なハードルが低い活動の中で、その人の内面の変化の気付きがもたらされるようなファシリテートが有効になります。

言語の外の存在としての馬

 この原生自然から間接化の問題を予測符号化理論*5から見ます。予測符号化とは、生物が生き延びる上で、必要な認知の働きです。例えば、捕食される敵の影が見えたら、さっと身を隠すというように、いちいち影が見えてその影の本体をしっかり確認してそれから逃げていたら間に合いません。目の前にあるモノを十分に確認しなくても、行動を起こせるように予測できるような認知の刺激をあらかじめ持っておく、というものです。人間は主に言葉を使ってその予測符号化を行ってきました。自然から切り離された都市化は、言葉を使った予測符号化を使いながら複雑な分業化を進めることで成り立ってきました。言葉を中心にした予測符号化が広がることで、ストレスに感じるモノを回避する場面が多くなり、言葉の外側にある身体や感情の働きが、どんどん弱くなり、その人の内側から力が湧かなくなっています。

 馬は言語を使わないので、馬とのやり取りにおいて身体の使い方が自然と要求されます。また、引き馬や乗馬をする際には、最初は馬に対して指示を出して動いてもらうような能動的な関わりですが、コミュニケーションが深まってくると、「馬と歩こう」と思ったら既に一緒に歩いていたというような中動態的*6な状態が訪れます。
 さらに、馬はこちらの感情の動きも敏感に察知することから、馬とやり取りを通して、こちらの感情の働きが養われます。馬は、関わる人間の感情を受け取って、それを身体の反応として、こちらに返してきます。例えば、こちらが緊張していたら馬の身体も緊張した感じになりますし、こちらがイライラしていたら馬はすーっと離れていきます。実際に、馬の運動で、走らせるときには、自分の内面のエネルギーをあげますし、逆に止めたいときは、自分の内面を鎮めます。馬を走らせたいときに「走れ」と言葉を出したときに、記号的な言語の意味は受け取らず、言葉に乗せている感情的なものを馬は受け取ります。散文的言語ではなく、詩的言語が使えているかどうかが問われます。
 しかも、こちらの身体の使い方と感情の働きが一致したときに馬はこちらが意図した反応を示します。さらにコミュニケーションが深まってくると、馬と動きが同調していく感覚に入っていきます。この時、ミメーシスといわれる感染的模倣が、人間と馬と相互に起こっている状態に入っているといえます。
 馬は、人間と異なるパターンで存在をしています。馬と関わる時には、こちら側のパターンを捨てて、馬の側に歩み寄り、馬と同調する必要があります。その際には、やり取りの相互作用があり、連続的に積み重なります。さらに、そのやり取りは、頭で考えた思考よりも身体での応答が求められます。そのやり取りの中で、言語で考えるという人間の思考が優先した瞬間に馬との関係が崩れますが、それも良い学びです。その時に僕らが囚われているパターンが露わになるからです。思考を捨てて、言語の外の世界に入り、馬との相互作用の中で、身体そのものが変化します。変化した身体を通して生まれた行動や思考は、パターンの枠を抜け出す力を持っていると考えています。
 馬に対して、こちら側の一方的なやり方を通そうとしても全く上手くいきません。人間中心の思考を捨てて、馬中心でやってみます。すると、それまで感じたことのなかった感覚が身体に訪れ、身体も変わっていきます。馬は、人間よりも身体も大きくて力も強いです。馬は、人間とは異なる身体性を持っていて、馬と一緒になることで、自分の身体の能力が拡張されます。自分自身の馬との経験を思い返しても「なんだか分からないけどスゴイ」という瞬間が何度も訪れています。

馬のために働く〜身体を不自由さの中に置いて、自由になる

 ホースセラピー実践の体験デザインでポイントとなる一つとして、馬のために働くことが挙げられます。私たちのホースセラピー実践は、「馬の暮らし型セラピー」と説明することがあります。というのは、馬の暮らしをベースにしているからです。
 馬と暮らすためには、馬にエサを与えたり、馬の部屋の掃除をしたり、様々なお世話をする必要があります。私やスタッフ達が、毎日の馬の暮らしのベースを回し、そこに子どもたちがやってきて、馬と過ごします。最初は、お世話の活動に乗り気ではない子もいます。馬との暮らしの流れに入るものの、最初は流されている感じ〈受動態的〉ですが、馬と共に身体を動かしているうちに、その流れを共に生み出す一員になり始め〈能動態的〉、最後は流れそのもの〈中動態的〉になっていきます。馬の暮らしの流れに入ることは、ある一面から見れば行動が縛られることですが、そこに主体の選択はなくても、馬の暮らしを重ねる中で、身体と感情が一致して自由になれている感覚が感じられるようになります。さらに、馬のために働くことで、その人がその暮らしの場の一部となり、その場に働きかけることで、その場から反応があり、「自分はこの場に居ても良いんだ」という自己有用感や自己価値観が培われます。
 また、馬のために働く過程で、子どもたち同士のコミュニケーションも図られます。これは、言葉だけではなく、身体を使って仕事をしていますので、相手や場を気遣う感情も働きますし、言語外の力も引き出されます。

体験を振り返り、[力を失うものか/力が湧くものか]を識別する力にする

 ここまで、実際の現場で、馬との様々なやり取りで、子どもたちにどのような力が養われるかということについて記してきました。ここでは、馬との様々な体験を経た後に、その体験をどのように日常に持ち帰ってもらうか、ということについて考えていきます。
 まずは、体験の中で何が起こっていたのかを言葉にします。子ども自身から言葉が出てくることもありますが、初めて体感することなどは言葉にすることが難しいです。ここまでで述べてきたような学問的な背景を援用しながら馬との関係の中で起こっていたことを解き明かしていきます。さらに、日常と相対化しながら、それが[力を失うものなのか/力が湧くものなのか]、その両方が存在していることへの意識づけを行います。馬との体験は、非日常で力が湧くものに溢れていますが、この世界には力が湧くものがあることを思い出させ、日常の中からも力が湧くものを見つけ出すことを促し、ツマラナイ毎日を変えていく力とします。

おわりに〜表象をつくり出し、感染をさせる側に回る

 最後に、良い実践を自分の現場だけに留めずに社会を変える力にするために何が必要なのかを考えます。

 ダン・スペルベル「表象は感染する」*7では、表象としての言語は、人間の側が主で、言語を使っているのではなくて、人間の一生の時間軸より長く取れば、言語の側が主で、人間はその言語を感染させるための培地に過ぎないという考えが書かれています。人間は、培地に過ぎないかもしれませんが、それを逆手にとって、社会をよくするための表象を意識的につくり出し、感染を引き起こしていきたいと思います。社会を良くしようとする実践は、点かもしれませんが、その点と点をつないで、実践例を交換し合い、そこで起こっていることを様々な学問的な視点を元に語彙を揃えていきます。一つ一つの実践は小さいですが、語彙を揃えることで、良い実践がつながり、広まる力を持つと考えています。
 そのためにも、今回の講義で出会ったメンバーや同じ思いを持つ方々と対話や議論を重ねて、共通の語彙を練り上げていきたいと思います。

脚注、参考文献

*1 全4回で開講された。

宮台真司 社会学講義 2023年秋先行開講 宮台真司・阪田晃一|社会という荒野を仲間と生きる
社会学講義&ゼミナール はじまる 2023年秋に開講される本講義は、2024年から本格指導する「宮台真司社会学

*2 社会意識とサブカルチャーの変遷について

*3 プラグマティズムについて

*4 「対話」の章の「第二部 限界」の「根源運動」に馬の話が出てきます。馬を入れ替え可能な存在として見るようになったら、馬との関係が築けなくなったという経験談が記されています。P.210〜212

*5 予測符号化理論について

*6 中動態について

*7 表象の感染について

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